2023年9月25日月曜日

「Nコン!」第19コーラス目「憂鬱!」

「あ、あれ?」
 真湖が変な声を上げた。乃愛琉が真湖の指した方向を見ると、見かけたことのある顔が。
 その男子生徒三人は、間違いなくあの三人だった。特徴のある顔立ちなので、乃愛琉《のえる》でも記憶している。
「あ、あの人たち……。でも、変じゃない?あの制服、うちの中学のじゃないよ。多分……石農《せきのう》のじゃないかな」
 西光中男子の制服は詰め襟の学ランで、彼らが今着ている制服はブレザーなので、遠目に見ても違いははっきり分かった。

 石農とは、石見沢農業高校の略で、テレビアニメにもなった人気漫画のモデルとして有名な某道東の農業高校を遙かに凌ぐ、北海道で最も学生数の多い農業高校である。空知地区で酪農業を継ぐつもりの中学生はほぼ間違いなくこの高校を目指す。
 酪農業というと十勝というイメージは強いが、実のところ、空知地区も広大な農地を持つ、北海道の穀物庫であるのだ。
「うん、あれ、絶対そう。リーダーに、サンマに、マツコだよ。確かにブレザーだよね。うちのじゃない。でも、あの時はうちの中学の制服だったよね? バッジも3年生のだったし」
「うん、確かにうちの制服だったよ。どういうことかしら?」
 何となく真湖たち三人は彼らの後を追った。日曜日なのに制服を着ているところを見ると、部活の帰りなのだろうか。
 駅前を過ぎ、住宅街にさしかかった頃、周りから他に人影がなくなった。真湖は意を決して、彼ら三人に近づいた。
「あ、真湖ちゃん!」
 乃愛琉は、真湖を止めようとしたが、遅かった。
「すみません!」
 真湖は三人の前に立ちはだかって仁王立ちになった。
「あー?」
 リーダーはあの時と同じように、地響きするような低い声で真湖を威嚇した。
「ひっ!」
 真湖は思わず身を縮めた。
「なんだ、お前か。なんだっけ、キラキラ?」
 逆に驚いたのはリーダーの方だったらしい。目をきょとんとして、真湖を見つめた。
「ち、違います、煌輝《きらめき》です!」
「で、なした? なんか用か?」
 気の抜けた様子でリーダーが聞いた。
「なにか用って、用があったのはそっちだったじゃないですか!?」
 真湖は必死にそう叫んだ。追ってきた翔が真湖の前に立ったが、リーダー達は何も手出しする様子がなかった。
「あー、それな、もういいわ」
 リーダーはあっさりとそう言い抜けた。
「え?」
 真湖はすっかり脱力した。
「いい、って、どういう意味ですか?」
「いいって言ったら、いいんだって。もう気にすんな。用はそれだけか? じゃな」
 そう言って、三人はそこを立ち去ろうとした。
「よ、芳田、芳田瑞穂《よしだ みずほ》先輩に頼まれたんですよね!?」
 真湖はそれだけは確かめたかった。リーダーはふと振り返って、
「なんだ、知ってんじゃん。もうバレたんかい。まあ、じゃあ、もういいよな?」
 とだけ言って、また元の方向に歩いて行った。
「真湖ちゃん、大丈夫?」
 翔が前から、乃愛琉が後ろから真湖を支えた。この前のように腰を抜かしかねないと心配してのことだった。
「ん……大丈夫……」
 と、言いつつも、翔にもたれかかった。
「真湖ちゃん!」
 そのまま真湖は意識を失った。

 真湖の意識は混濁していた。それは、幾人かの記憶が混じり合った、マーブル模様。赤色、黄色、緑色、青色と茶色が混ざり合ったチョコレートのような。ぐるぐると回っては溶け合うチョコレートに流されながら、真湖はぷかぷかと浮いていた。真湖の耳から入り込んでくるチョコレートは時に甘く、時に苦く。
「耳から入ってくるのに、どうして味がするのかな?」
 真湖は不思議に思いながらも、その液体の味を味わっていた。ほろ苦い味の時は胸がぎゅっと締め付けられる気持ちになる。甘い時はトロトロになりそうになる。
 でも、大半は何も味のない茶色のチョコレート。やがて、チョコレートの流れは速くなっていき、ある方向へと導かれていく。流れが速くなるにつれて、どこかから声が聞こえてくるような気がした。いや、確かに誰か自分を呼ぶ声がする。
「真湖ちゃん、真湖ちゃん」
「乃愛琉《のえる》、もうちょっと待って。あと、五分、あと五分寝かせて」
 真湖はようやく夢うつつに、その声が乃愛琉だと気がついた。


「真湖ちゃん、起きて、お願い起きて」
 寝言ながら、真湖の反応があったので、乃愛琉と翔は少し安心した。
「真湖ちゃん、真湖ちゃん」
 二人揃って真湖の名前を呼び続けた。
「ん……」
 真湖は朝いつもベッドから起き上がるかのように、ゆっくりと体を起こした。
「あれ? ここは?」
 すっかり自分の家だと思っていたら、どうもここは公園のベンチのようだった。
「近くの公園。真湖ちゃん、倒れたの覚えてない?」
「あれ……だったっけ? よく覚えてないなぁ。あれ、エンリコくんも一緒だったっけ?」
 どうも自分の記憶が曖昧だった。何か夢を見ていたように思うけれど、よく思い出せない。
「あれ、駅前であの三人組に出会って、それで真湖ちゃん、そこに飛び出していって……」
「あ、ああ。そうだったっけ」
 乃愛琉に言われて、ようやく思い出す。
「芳田先輩……だ。そうだね、やっぱり、あの人に頼まれたんだ、あの人たち」
「そう、そういう話だったけど……。で、あの人たちがいなくなった後に真湖ちゃん倒れちゃったんだよ」
「病院に連れて行こうって言ったんだけど、乃愛琉ちゃんが、ここで良いって言うから、とりあえず、ボクが背負ってここまで……」
 ああ、そう言えば、あの人達と話しているうちに、意識が朦朧としてきたんだっけか。と、真湖は徐々に記憶を取り戻した。そう言えば今日は色んな人の記憶を取り込んだので、すごく疲れてたんだった。
「うん、ごめん。でももう大丈夫だから」
 真湖はそう言って、ベンチにあげていた脚を下ろした。
「本当に大丈夫? 病院行かなくて?」
 翔は心配そうに真湖と乃愛琉を交互に見た。
「大丈夫だと思うよ。ほら、ちょっと貧血気味だったんじゃないかな。その……女の子ってさ、いろいろあるから」
 乃愛琉がそっと、翔に耳打ちするように言うと、翔は一瞬固まった後、紅い顔をして、
「あ、ああ! そっか、そっか、じゃあ、だ、大丈夫かなぁ」
 と、大げさに言った。
「ちょ、乃愛琉!」
 抗議しようとした真湖の口を乃愛琉が塞いだ。
「じゃ、ぼ、ボクは先に帰るね。もうこんな時間だし。じゃ、また明日ね」
 翔は慌ててその場を立ち去った。
「乃愛琉! あたし、まだなったことないし」
「うん、知ってる」
 乃愛琉はにしゃりと笑った。
「で、誰の見たの?」
 乃愛琉は極々簡潔に聞いた。
「えっと、新栄中のあの一年生と、雅先生と、あと、エンリコくん」
 真湖はすぐに乃愛琉の意図を汲み取って即答する。
「一日に三人も見るなんて、初めてじゃない? それは疲れたんじゃない? 多分そのせい?」
「うん、多分そうだと思う。帰りの電車の中でも眠くて、眠くて」
「道理で静かだと思った」
 思い返せば今日一日緊張の連続だった。初めての遠征、全国レベルの合唱、初めてのライバルとの出会い、そして、雅先生の語らない秘密。最後にエンリコ翔の過去。
 どれも他人には触れられたくはない記憶だったはず。それを一気に触れてしまったために、その記憶に飲まれてしまっていたのだろう。
「うん、あたしもびっくりした」
 まだ頭の中で整理がつかない。様々な記憶がイメージとして流入してくるため、一気に入ってくるとどれが自分の記憶で、どれが誰の記憶かが分からなくなってしまっていたのだ。
「それにしても、乃愛琉、さっきのはひどいんじゃない? あんな嘘」
「真湖ちゃん、まだかぐや姫が来てないのにって?」
「うーん! そういう言い方やだー!」
「よしよし、大丈夫もうすぐくるって」
 乃愛琉は真湖をなでなでした。真湖が中学生になってもお客さんがきてないことは乃愛琉も知っていた。多分クラスでもかなり遅い方なはず。色恋沙汰に不器用で奥手なのも、多分その影響もあるのだろう。
「だから、そういうことじゃなくって!」
 もしかしたら、真湖の能力はその裏返しなのかもとも思う。もしかすると、もうすぐそれはなくなるものなのかも知れない。けれど、それは乃愛琉の想像であって、本当かどうかは分からない。言葉にするのは躊躇われた。
「とにかく、早く帰って、休んだほうがいいよ。疲れたんだったら」
 乃愛琉は真湖の手を取って、立ち上がった。
「あ、うん……」
 真湖はされるがままに立ち上がって、乃愛琉の後をついて行った。
「そう言えば、乃愛琉、聞かないんだね、何見たか」
「うん。真湖ちゃんが言わないってことは、言いたくないのか、言わない方がいいと思ったのか。多分どっちかだからね」
「そっか、ありがと」
「ううん。必要になったら言っちゃえばいいんだし、言いたくなったら言ったらいいよ。わたしでよかったら聞いてあげるし」
 他人の心の裡を、秘密を覗き見ることの負担というのはどのくらいのものなのだろうかは乃愛琉には分からない。ましてや、自分で知りたくて知るのではなく、自分の意志とは関係なく見えてしまうのだから。時々真湖から相談事のように聞かされる時に感じるのはそういった、負の部分しか感じられない。多分、真湖のまっすぐな性格がそうさせるのだろう。
 そういった素直さが乃愛琉にとっては、真湖の良いところだとも思えるのだけれど。

 札幌遠征から帰宅した夜、真湖は夕食もそこそこに自室に入った。
 たった一日だったのに、なんだか色々なことが起こって、頭の中がいっぱいいっぱいだった。
「疲れたー」
 部屋に入るなり、ベッドになだれ込んだ。けれど、頭ははっきりしていて、全く眠い感じはしない。ただ、頭の奥底でジンジンするような、痺れるような感覚が続いていた。帰りの電車内でウトウトしていたのとは正反対だ。
「何だったんだろ、あれ...」
 乃愛琉に話た通り、何故か今日は三人もの人の心の中を読んだ。読んだと言っても、今回は皆イメージみたいなものだった。現《うつつ》の心を読んだ時のように、具体的な人の名前や顔を思い出す心の中を読むのとは違っていた。人の気持ちや、過去の漠然とした内容だと、とても抽象的なイメージにしかならないのだ。しかも、三人の持つイメージが混ざりあってしまっていたため、もう真湖には誰が何を考えていたのかを区別することができなくなっていて、さっきさっき気絶していたときに見たイメージがそれだった。

 ただ、新栄中のあの一年生のイメージはドス黒く、多分、言っていた言葉と気持ちが違っていたのだろう。つまり彼女は嘘をついていたことになる。
 雅先生のイメージも何か奥底に秘めた思いがあったように見えた。過去に新栄中の顧問や、あの先生達と何かがあったのかも知れない。だとすれば、その過去を押して無理してでも、自分たちをあそこに連れて行ってくれたのかも知れない。
 あと、エンリコ翔。札幌に残してきた記憶。「パパのこととか思い出しちゃう」と言っていた。その気持ちに繋がるようなそんな寂しい気持ち、だったような気はする。
 乃愛琉にも伝えなかったのは、皆それぞれに持った過去であり、あまり触れてほしくはないと思われたからでもあったが、彼らの複雑な気持ちの塊をなかなか言葉にすることができなかったという理由もある。
「なんかなー」
 なかなか寝付けないというのもあったが、心の中のモヤモヤが増えていくことに、何かしらの不安が募っていった。
 おもむろに、真湖はベッドから立ち上がり、カーテンを開け、窓越しに隣の家を覗いた。阿修羅の部屋は電気がついていなかった。もうすでに寝たのか、それともまだ居間にいるのか、風呂にでも入っているのか。多分、こんな時に話したい相手は阿修羅なのだろう。もちろん、詳しい話はできないけれど、言いたいこと言って、気分を晴らせるとすれば彼しかいないのだった。
 五分位、そのまま待ってみたけれど、電気がつく気配はなかった。真湖は諦めて、またベッドに潜った。

 やっぱり、寝付けないなと思いつつも、やはり疲れたのだろうか、いつの間にかすーすーと寝息を立てて、深い眠りについた。

 翌朝。
 珍しく、阿修羅が真湖を迎えに来た。
「どしたの?」
「いや、別に」
 と誤魔化した阿修羅だが、実は昨日の夜、乃愛琉から真湖に内緒でと連絡があり、朝迎えに行ってやってほしいと言われてたのだ。昨日の今日で乃愛琉はちょっと心配だったのだが、ここは阿修羅の方が良いだろうとの乃愛琉の機転からだった。阿修羅は何も言わなかったが、真湖には何か感じるものがあった。
 もちろん、先生たちの記憶を読み取ったことは阿修羅には内緒だった。
「で、どうだった、翔とのデート?」
「デートじゃないし。遠征だし。見学だし」
「はいはい、遠征ね。どうだった、全国レベルの見学結果は?」
「うん、全然上手かった」
「だろうなぁ」
 阿修羅は鞄を背負いながら空を見上げた。自分も果てしない上の上を見てはいるが、多分そこに届くことはないだろう。
「だから、言ったじゃん、全国って甘くねぇぞって。ホントお前って、世の中舐めてるからな」
 と、散々な言い方をしても、真湖からの反論がなかった。いつもの手応えがない。
「どした? よっぽどショックだったんか?」
「ん。まあ、たしかに、あっしゅ言う通り。いかにあたしが色んなこと知らないかってのは分かったし」
 どうやら図星だったらしい。珍しく殊勝な言い方をする真湖が阿修羅には意外だった。なるほど乃愛琉が心配になった理由がようやく分かった。
「まあさ、まだ合唱部も始まったばっかだし、コンクールのある夏まではまだ時間あるし、あとは頑張って練習するしかねーんじゃね?」
「だよねー」
 ただ上の空に相槌をうつ真湖。歩きながらぽんぽんと鞄を蹴りながらのんびりを登校する。小学生からずっと一緒だったが、こんなしおらしい真湖は初めて見た。そう見てみると、真湖もまんざらでもなく。いつもは走り回ってばかりいる印象が強くて、あまり落ちついたところを見たことがなかったが、クラスでも、顔立ちは良い方なんだよな、などと思いつつ。
 しかし、一瞬で我に返り、首を振って、
「あー、何考えてるんだ、俺」
 真湖に聞こえないように呟く。
 しかし、エンリコ翔が真湖に告白した一件も思い出したり、クラスの小林が真湖のことを気にしているらしいなんていう風の噂もあったりで、どうしても気になってしまうのだ。
「あっしゅ、あのさ。嫉妬ってしたことある?」
「はぁ!? なんだ、急に」
 まるで心の中を読まれたようなタイミングで問われ、阿修羅の心臓が飛び出たようになった。
「ねぇよ、そんなの。ある訳ないだろ?」
「だよねー。あたしもわかんないんだー」
「おまえ、何言ってんだ、訳わかんねー」
「わかんないよね。ホント、大人って難しいわぁ」
「おとな? はぁ?」
 いよいよ真湖が何を言いたいのか分からなくなってきたところ、前を歩いていた真湖が急に振り向いてぶつかりそうになった。
「!?」
「あんまり考えるのヤメタ! 悩んだって、前に進まないもんね!」
 かろうじて衝突を回避した阿修羅は面食らった。真湖はいつもの表情に戻っていた。
「ようし! 今日から練習頑張るぞ!」
 真湖は阿修羅の心の裡を知ってか知らずか、必要以上に元気な声を出して、エイエイオーした。
「まあ、いいんじゃね」
 阿修羅は一つため息をついてから、真湖に頷いた。
「残り走っていこーぜー!」
 と言ったかと思うと、真湖は一人さっさと走り出してしまった。
「お、おう」
 阿修羅は後を追いながら、やっぱり、真湖は元気な方がいいと思った。

2014年10月27日月曜日

「Nコン!」第18コーラス目「衝撃!」

 新栄中学の校門に到達する頃、心地よい春風にのって、かすかに歌声が聞こえてきた。合唱部の歌声なのだろうことは真湖にも分かった。いよいよ、全国レベルの歌が聞けると思うと、否が応でも緊張してきた。
 雅がインターホンで職員室に連絡すると、扉が開いた。
「君たちはここで待ってて」
 皆にそう言って、一旦先に玄関に入って行った。
 その頃には合唱部の歌声が消えていた。休憩時間なのだろうか。
「なんか緊張してきた」
「真湖ちゃんはこないだっからずっと緊張しっぱなしだね」
 翔がいつもより若干柔らかめな笑顔でそう言った。
「だって、全国レベルなんだよ!しかも、北海道の。そ、それに、ずっとってことはないよ、さすがに新歓の時は緊張したけど……さ」
「適度な緊張は交感神経を活発にさせるからいいけど、過度な緊張は発声の妨げになるから、煌輝(きらめき)さんは色々慣れておかなきゃダメだね」
 栗花落(つゆり)はそう言って笑った。
「こうかん……交換神経ですか」
 真湖はしばらく誤解したままだった。
「全国レベル、全国レベル……」
 真湖が念仏のように呟いた。
「にしても、全国レベルって、どんなんだろうね」
 神宮が気のなさそうに言った。
「神宮先輩は見たことないんですか?」
 乃愛琉(のえる)が聞く。
「去年はNコン地区大会敗退だったからね。一昨年は参加してないし。あれ、一昨年って、全道行ったんだっけ?」
「行ってません。銀賞止まり」
 現(うつつ)が残念そうに答える。
「それでも、銀賞は取ったんですね」
 以前に真湖とネットで調べていたので知ってはいたが、乃愛琉はわざと明るめの声を出す。少なくとも賞をとっているであれば、それはそれで素晴らしいことだ。
「去年一昨年は緑中が全道。だからわたしも緑中を含めなければ、まだ全道レベルの学校でさえ、直接は拝んだことないのよね」
「全国って言ったら、まるっきり違うんだろうな」
 栗花落が厳しい顔をした。
「練習も厳しいのかな? 隊列組だりとかして?」
 神宮の想像は大体斜め上。
「わたしもテレビとか動画サイトとかでしか観たことないけど、あのハーモニーっていうか、一致感はすごいよね。同じ中学生とは思えない」
「田舎から来たって、バカにされないかな」
「バカにされても仕方ないわね。全道にさえ出てない学校のことなんて」
 栗花落の心配に現は自虐的にそう言った。
「なんか、恐そう」
 乃愛琉がそう呟く。
「雅先生がどういう交渉したかは分からないけど、見学許可するってあたりで、うちらのことどう見てるかなんて明白でしょ」
「どういう意味ですか?」
 真湖は不思議な顔をした。
「眼中にないってこと。つまりライバルとしては見てないってこと。そうじゃなかったら、練習風景見せたりしないでしょ」
 現がけんもほろろにそう言った。


「お待たせ」
 しばらくして、雅が戻ってきた。
「見学オッケー。但し、そんなに長い時間じゃないから、しっかり聴いておくんだよ」
「はい!」
 雅を先頭に音楽室に入ると、すでに合唱部の生徒たちはきっちりと整列していた。35、6人はいるだろうか。ようやく20人を越えたばかりの西光中とは大差がある。
「石見沢西光中の合唱部の皆さんです。今日は私たちの練習を見学されたいそうです。はい、挨拶」
 指導の先生がそう言うと、
「よろしくお願いします」
 と、一同に揃って挨拶した。こんな挨拶でさえ、息が揃っている。
「あ、こちらこそ……よろしくお願いします」
 対して、真湖たちはてんでばらばらの挨拶で、さらに大きな差を見せつけられた。
「では、1曲やりましょうか」
 すでに練習曲は決まっているらしく、指導教師がタクトを振ると、伴奏者がピアノを弾き始めた。
 真湖たちは、その場で黙って聴き始めた。
 曲は数年前にNコンの課題曲になった「虹」。森山直太朗がNコンのために書き下ろした曲であり、今でも人気の高い合唱曲の一つである。
 射原兄弟のどっちかが好きな曲に挙げていたなと、真湖は思い出した。


 彼らの合唱は、発声、音程、ハーモニー、どれをとっても素晴らしかった。抑揚、強弱の付け方、感情表現、歌詞に対する思いの深さ。それを聴く者に伝えようとする姿勢。同じ中学生とは思えない。
 このままNコンに出ても優勝するのではないかというくらいの完成度だと、現でさえも感じた。テレビやネットを通して聴くのとは全く次元の違う世界。ましてやまだ4月。少なくとも去年主力だった3年生はいない、もしかすると新入生も含まれているかも知れないのにだ。現は完全にノックアウトされていた。
「こんなのに勝てるはずない」
 合唱の間に何度この台詞を言おうと思ったか。しかし、雅のおかげでせっかく見学が許されたのに、そんな愚痴をここで言うべきではないと思うのと同時に、やっぱり負けたくはないという気持ちも相まって、への字口は開くことはなかった。


 合唱が終わると、真湖たち西光中合唱部全員が一斉に拍手をした。新栄中合唱部はそれに会釈で応える。その姿勢さえ、ほぼ同時に同じ角度に保たれている。
「いやぁ、素晴らしい。さすが常勝校」
 雅が賛辞の言葉を述べた。
「お恥ずかしい。まだまだこれからですわ。なんとか来年のコンクール目指してまとめていきたいとこなんですけど」
 指揮をしていた担当の指導教師が頭を下げた。その物言いに真湖は何かひっかかった。
「色々と気になる点は多々ありますよ。雅先輩ならお気づきかとは思いますが」
 それから、生徒達に気遣うように小さい声で、そっと雅に囁く。
「とんでもない。この時期にこれだけの完成度なら申し分ないですよ」
 雅は新栄中の生徒に聞こえるように大仰に言った。
「良いものを聴かせてもらいました。
 みなさん、ありがとうございました」
 雅は新栄中の生徒に向かって頭を下げた。


 見学は1曲だけで終わった。雅を先輩と呼んだ指導教師は慰留をしたが、雅が辞したのだ。
 両校共に深々と挨拶をしてから、真湖たちは音楽室を出た。
 音楽室を出て、玄関先に向かうまでの間、皆一同に無言だった。
 とにかくレベルの差を見せつけられて落ち込む現と栗花落。初めての全国レベルを聴けて緊張が未だ解けない1年生3人。そして、何を考えているのか分からないけれど無言の神宮。
「さすがに全国レベルですよね、上手だったー」
 ようやく口を開いたのは真湖だった。
「あれでも、2軍なんだよ」
 雅は淡々とそう言った。
「ふえぇ? 2軍? って、なんですか?」
 真湖は変な声を上げた。さっき感じた違和感はここだったのだ。
「あれは、ほとんどが2年生で、実際に『今年』全国に行くメンバーはここでは練習しないんだ」
「え?」
「3年生主体の1軍の精鋭はまた別メニュー組まれてて、今日ここには来ない。時々2軍の指導とかするのに来る程度だと」
「Nコンは出場人数35人までって決まってるからね。大所帯の部だと、2軍制度があったって噂は聞いたことあるけど、今時まだあるなんて」
 栗花落が補足しながらも、驚きを隠せない。
「新栄中学は全校生徒900人を超す札幌でも1、2位を争うマンモス校でね、さらに近年の合唱部の活躍から、合唱好きな子が市内各地から集まるらしい。引っ越ししてまで入学する子もいるって」
「部員が多いってのは聞いてましたけど、そこまでとは」
 さすがの現も面食らったようだ。
「じゃあ、1年生はどこにいるんですか?」
「あそこだよ」
 雅が、グランドでランニングしている生徒達を指した。
「入部したての1年生は基礎体力から。グランド10周に、ウサギ跳び、腹筋100回やったあと、発声練習で始終する。楽譜持たされるのだって、早くて今年の終わりくらいじゃないか。
 さっきの2年生もようやく歌い始めて半年満たないはずだよ」
 そんな説明も耳にしないまま、真湖は玄関を出て、そちらに向かって走り出した。
「あ、煌輝さん、待って!」
 雅の制止も聞かずに真湖は一直線に1年生の団体に向かって走った。
「あのー、すみません!」
 突然真湖に呼び止められた1年生数名が何事かと振り向いた。
「はい? なんでしょう?」
 うち、一人が返事した。
「あたし、煌輝真湖っていいます。石見沢西光中の合唱部に入部したばかりの1年生です。今日はみなさんの先輩方の練習を見学させてもらったんです」
「は、はあ。先輩って、2軍のですか?」
「はい! とっても上手ってびっくりしました!」
「石見沢って……ええ、わざわざ石見沢から?
 うん、先輩たち上手。わたしも早く先輩たちみたいに歌いんだけど」
「みなさんは、歌わないんですか?」
「わたしたちはまだ入部したばかりだからね。こうして、基礎練習」
「そんなんで楽しいの?」
「そりゃ、楽しくはないけど、早く1軍に入ってNコンに出るって目標があるから、頑張れるし」
 その生徒は笑顔でそう言った。
「こらぁ、そこ何やってる!?」
 グランドの向こうで、教師が怒鳴った。彼らの指導教師らしい。
「あ、ごめんね、行かなきゃ。じゃ、どこかで会ったら」
 その子が差し伸べた手を真湖は握手で返した。

「こらこら、勝手にその辺動き回らない」
 ようやく追いついた雅が真湖を取り押さえた。
「すみません、お邪魔しました」
 頭をペコペコ下げながら、真湖を連れてグランドを後にしようとした時、
「あれぇ、雅じゃねぇか?」
 さっき怒鳴った指導教師が雅の顔を見て、そう言った。雅は一瞬ちっと舌打ちをした。
「あ、佐伯先輩、どうもでした」
 雅は深々とその教師に頭を下げた。
「どした? 珍しいなこんなとこに……それ、誰? もしかして、合唱部の指導なんかしてるわけじゃないよな?」
 雅を追うように現達が駆け寄ってきたを見て、佐伯という教師は何か合点がいったらしい。
「ほう。どこの学校?」
「石見沢西光中です」
「石見沢? また随分田舎に引っ込んだもんだな」
「故郷ですから」
「そっか。じゃあ、あれか、三越先生のとこか?」
「はい、そうです」
 明らかに二人の間には何かの確執があることは誰が見ても明らかだった。
「まあ、遺骨でも拾ってやるんだな。旧石器時代のな。あはははは」
 明らかに失礼な物言いだったが、雅は何も口答えはしなかった。
「じゃ、失礼します」
 雅は佐伯という教師に頭を下げて、真湖を連れてそのまま踵を返した。
「みんな、帰るよ」
 真湖の手を引いてグランドを出る雅に一同は無言で着いていった。


「やっぱり、人数が多くないとダメなんですかね?」
 帰り道、最初に口を開いたのは乃愛琉だった。
「そんなことはないよ。例えば、6人で県大会金賞だった学校もあったくらいだからね」
 栗花落(つゆり)は意外に物知りだなと乃愛琉は思った。
「6人でですか?」
「まあ、女子だけの合唱部だったってのも特殊ではあるけど。とにかく人数は絶対条件ではないってこと」
「やっぱり、練習量よね」
 現がさらりと言った。
「日曜日だってこれだけ練習してるんだし。さっきの2軍の合唱聴いたって、去年から死にものぐるいで練習してきたって感じ、はっきり分かるもの」
「練習しても、下手な奴は下手だけどな」
 神宮が茶々を入れる。
「神宮くんみたいに才能ある人には分からないわよ。そういう、神宮くんだって、新栄中にいたら、今だったら、多分中の上くらいだと思うわ」
「うん、まあ分かってるけど」
 さすがの神宮にとっても今回の遠征は効いてはいたらしい。若干殊勝な言い方だった。
 皆がそんな感想を述べ合っている間も、真湖と雅は始終黙っていた。何故か流れで手を繋いだままなのも気づいていない様子。
「真湖ちゃん大丈夫?」
 あまり長い時間二人が黙っているので、乃愛琉が心配になって真湖に声をかけた。
「え? ああ、うん。大丈夫」
 気がつけばもう地下鉄の駅まで歩いてきてしまっていた。そんなに長い時間だったのか。
「あ、ごめん、もういいよな」
 雅はそう言って、ようやく真湖の手を離した。
「これからどうします? もし良かったら、ボクの知り合いのところで昼ご飯でも食べに行きませんか?」
 神宮がそう提案すると、皆も同意した。すでに時計は2時を過ぎようとしていた。


 一同はそのまま地下鉄に乗って、さっぽろ駅に向かった。
 途中、元気のない真湖に乃愛琉が気がついた。
「真湖ちゃん、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫」
 心ここにあらずな表情で答える真湖。
「ボクが言うのもなんだけど、真湖ちゃん、元気ないよ」
 翔も心配だったのか、そう声を掛けたが、当人も相変わらずの雰囲気で、二人ともにどんよりとしていた。真湖は翔に言葉も返せずにいた。
 さすがにあれだけの実力を見せつけられたのだから、仕方ないかとも乃愛琉は思った。全国レベルのハードルの高さは乃愛琉にとっても予想以上だった。
 同じく、現や栗花落もあまり表情が冴えない。雅が気にして現に声を掛けた。
「現さんも、かなりショックだったかい?」
「ですね」
 現は言葉少なく言った。
「煌輝さんたちに良い薬になればと思ってたんだけど、それ以上に君たちにも衝撃が強すぎたかな?」
 横で栗花落が苦笑いした。
「いえ、むしろ現実を見せてもらって、具体的な目標が見えた分、やりやすいです」
「君も、思った以上に強がりだね。でも、部長はそうじゃなくっちゃ」
 雅はくすりと笑った。
「まだ始まったばかりですし、ここで諦めてちゃ、ここまで苦労した甲斐がありませんから」
 現はちょっと無理して微笑みを返した。そりゃそうだと雅も頷いた。


 神宮が案内したのは、札幌駅前のホテルの中のレストランだった。すでにお昼休みらしく、扉は閉まっていたが、神宮が声を掛けると中から従業員らしき人が扉を開けた。
「え、ここ……が、お知り合いの?」
 乃愛琉はそんな神宮を見て驚いた。どうみても高級そうなレストランだった。
「うちの親戚がやってるんですよ」
「このレストランですか!?」
「いや、このホテルを、だよ」
 あっさりと言う神宮に一同は唖然とした。札幌駅前の高層ビルに入ったそのホテルは30階は超す高さだろうか。少なくとも石見沢にはこの高さの建物はない。
「元々地元の会社が運営していたんだけど、10年くらい前に経営難で倒産したらしく、ボクの叔父の会社が買ったんだってさ」
 気のない返事で神宮は答えた。
「すごいですね、ホテル経営とか」
 雅が思わず敬語になった。
「ボクがやってるわけではないんで……あはは」
 神宮が謙遜なのかどうか判断つかない言い方をした。
「あ、来てますか?」
 神宮が従業員に声を掛けると、「はい」と返事をして、皆を奥の部屋に誘導した。従業員が奥の部屋を開けると、中から一人の女の子が飛び出して来た。
「知毅(ともき)お兄様!」
 飛び出してきた女の子は、真湖たちと同じくらいの年頃だろうか。ドレスのようなひらひらの洋服を着ている。一見すると、ゴスロリコスプレに見えなくもない。
「ちーちゃん。久しぶり」
 神宮は飛び出して来たその子をそのままだっこして受け止めた。まるでそれはお姫様を迎える王子様の様で。乃愛琉はその様子を見て面食らった。
「あ、皆さん、紹介します。ボクの従兄妹(いとこ)で、神宮千衣子(じんぐう ちいこ)っていいます」
「神宮千衣子です、よろしくー」
 さすがに札幌の子。垢抜けた感じの子だった。神宮にだっこされたまま、満面の笑顔で皆に挨拶した。
「お兄様、新栄中見学されたんですって?」
「行ってきたよ。うん、上手かった」
「へえ、そうなんだぁ。実はわたしもね、合唱部入ったのよ?」
「へえ、女子校にも合唱部なんてあるんだ?」
「ええ、中高合同ですけどね。中等部は今年からNコンも出ることにしたのよ」
 千衣子はそう言って、真湖達に視線を送った。真湖と乃愛琉はきょとんとした。
「だから、お兄様も頑張って北海道ブロックに出てきてくださいませ」
「へえ。札幌地区で金賞取るつもりかい?」
「もちろん」
 千衣子は自信満々の表情でそう答えた。
「まあ、いいや。皆さん、どうぞ、お入りください。自分の家だと思って寛いで」
 奥の部屋に通されると、中はVIPルームらしく、シャンデリアに飾られたヨーロッパ風の小部屋だった。ロココ調の内装と家具が千衣子のドレスを違和感なくさせていた。むしろ、制服の真湖達の方が浮いていた。
 自分の家だと思うにはかなり無理があるなと真湖も乃愛琉も思った。
「どうぞ」
 しばらくして、給仕のスタッフが刺繍の入ったテーブルクロスの上に重箱に入ったお弁当を持ってきた。中を開くと、洋食のセットだったが、気を遣ってなのか、お箸で食べられるメニューだった。真湖はほっとため息をついて安心した。
「みなさん、知毅お兄様をよろしくお願いしますね」
 会食の間、千衣子は何度もそう言った。その度に、真湖と乃愛琉への牽制にも似た目線を送り続けていた。
 会食は1時間程度で終わった。部屋の雰囲気に圧倒された一同は最初は無口で過ごしたが、次第に慣れてきたのか、神宮と千衣子の会話に混じっていった。千衣子が真湖たちと同じ中一であること、札幌でもお嬢様校と名高い中高一貫の女子校に通っていること、千衣子も生まれは石見沢であったが、両親の仕事の都合で札幌に移り住んだことなどを聞いた。
「では、次にお会いするのは、Nコンの会場ですわね」
 真湖たち合唱部の一同にそう言って、千衣子は最後に神宮に向かって、
「お兄様は次はいつ札幌にいらしていただけるの?」
「どうかなぁ。ボクも今年受験生だからね。去年までみたいに、しょっちゅうって訳にいかないかも」
「千衣子寂しいですわ。じゃあ、今度わたしが石見沢に遊びに参りますわ!」
 千衣子は手をぽむと叩いて、そう言った。どうやらNコン前にどこかで会う予感をもった真湖であった。


 一行はそのままJRで石見沢に戻る。石見沢駅に着いた頃にはすでに薄暮の時間だった。
「じゃあ、今日はお疲れ様。また明日」
 雅の号令でそこで解散した。
「あ、あれ?」
 雅、現達と別れた直後、真湖が変な声を上げた。乃愛琉と翔が真湖の指した方向を見ると、見かけたことのある顔が。
 その男子生徒三人は、間違いなく公園で真湖に因縁をつけてきた、あの三人だった。特徴のある顔立ちなので、乃愛琉も翔もはっきりと判別できた。
「あ、あの人たち……。でも、変じゃない?あの制服、うちの中学のじゃないよ。多分……高校の制服……石農(せきのう)のじゃないかな」
「え? なんで?」
 真湖たちは頭を捻った。

2014年10月20日月曜日

「Nコン!」第17コーラス目「逢引!」

 日曜日。真湖たちは、午前9時半石見沢発札幌行きの区間快速「いしかりライナー」に乗っていた。真湖の隣には翔、向かいには乃愛琉(のえる)と神宮先輩。
 神宮先輩との約束通りのダブルデートである。
 ところが、隣のボックスには、雅(みやび)、現(うつつ)、栗花落(つゆり)と何故か真湖たちの担任である英(はなぶさ)かっこ独身28歳かっこっとじがいた。
 何故こういうことになったかというと、話は金曜日に遡る。


「先日の約束どうする? この日曜日だったら、ボク時間とれるけど?」
 雅の就任が決まった金曜日の放課後、練習開始前に神宮が乃愛琉に声を掛けた。例のデートの約束のことだろう。それについては、今朝、すでに乃愛琉と真湖の間で段取りが済んでいた。
「日曜日ですか? いいですけど、あの、先輩、わたし、その……ふたりっきりとかって、ちょっと……恥ずかしくて……。その、ダブルデートってわけにいきませんか?」
「ダブルデート?」
 神宮はちょっと考えた風にして、
「へえ、それはそれで面白い趣向なんじゃない? 誰と?」
「真湖ちゃんです。わたしたち、小学校からの幼なじみなんです」
 乃愛琉は真湖を指指した
「そうなんだ? ダブルデートってことは、向こうもカップルってことだよね?」
「はい、そうです」
「なら、まあいいか。二人のお相手するのも乙かなとは思ったけど」
 つまり両手に花。そう出たかと、乃愛琉は思ったが、一応事前の打ち合わせ通りに。
「いいんですかぁー? 神宮先輩ってぇ、本当に優しいんですねぇ」
 乃愛琉はできるだけ甘い声を出した。思いっきり演技声になってるが、神宮は気にしてないみたいなのでそのままいく。
「でぇ、わたし、行きたいところがぁ、あるんですけどぉ。いいですかぁ?」
「いいよ、君の行きたいところにしよう? どこに行く? 遊園地? それとも?」
 地元には、四井グリーンランドという遊園地がある。そこのことを言っているのだろう。
「当日までぇ、秘密ぅですぅ」
 非常にわざとらしい口調であったが、むしろ神宮の目は輝いてきた。
「ははは。面白いね、君。じゃあ、当日のスケジュールは任せるよ。楽しみにしてるよ」
「はい! わたしも楽しみですぅ」
 日曜日の午前9時に石見沢駅前で落ち合う約束をして、練習に入った。
 真湖との今朝の打ち合わせでは、駅前で会って、買い物かなにかに付き合わせて、昼ご飯食べて別れる予定で考えていた。適当にお茶を濁してさっさととんずらするつもりでいたのである。

 一方、就任を決めた途端に雅は本気モードに入っていた。最初現の指導には口を挟むことはしなかったが、練習を始終見て、おのおのの特徴を捉えるべく、時々独唱を指示したりしては、メモに何か書いていた。
 そして、練習が終わった後、現を廊下に呼び出して、相談を持ちかけた。
「煌輝(きらめき)さんから聞いたんだけど、Nコン全国出場目指すって言ってたけど、君は本気なのかい?」
 雅の目が真剣だった。
「あ、いえ……その、本気ではあります。ありますけど、今のメンバーだと……」
「まあ、ほぼ無理だね、今のままだと」
 雅はまっすぐだった。
「ですよね」
「ただ、原石はいる。磨けばうまくなる要素はある。そして、どうやって一体感を育むかじゃないかな」
 原石も磨かなければただの石ころである。まさに、石ころだらけの合唱部なのが今の現状。
「可能性はありますか?」
「あとは、意識の問題だろうな。今の調子だと、地区大会だって賞をとれるかどうか」
「意識付けですか。そこまでなるとわたしにも分かりません」
「まあ、そこは指導者たる顧問の仕事だからね。……どうしようかな……ちょっと現実を見せた方がいいんじゃないかと思うんだけど」
「現実……ですか?」
 現はきょとんとした。
「煌輝さんたちは1年生だから、当然Nコンに出たことないだろ? 他の学校がどれだけ上手いかとか知らないんじゃないか?」
 ああ、と現は頷いた。なんとなく雅の言っている意味が分かったような気がした。
「多分、ボクが思うに、この合唱部の要はあの子だと思ってる。もちろん、言い出したのが彼女だっていうのもあるけれど、なんていうのかな、人をぐいぐい引っ張っていこうとする力があるっていうのか」
「わたしも、引っ張られっぱなしですけどね」
 現は苦笑しながら同意した。
「要となる子が現実を知らないと、どうしても手を抜くし、高い目標がないと頑張れない」
「高すぎても、ですけど」
「だって、全国目指すんだろ。高くて結構。それで諦めるくらいなら、最初からやらない方がいい」
「先生って、厳しいんですね、見かけによらず」
「そうかい、そんなに頼りなく見えるかい?」
「いえ、失礼しました」
「こう見えても、三井先生の直弟子でね。この学校に来られる前の話だけど」
「ああ、それで……」
 三井先生も厳しい人だった。その愛弟子だったということは、それなりに覚悟しておく必要があるのだろう。校長先生もそれを知っていて、雅を合唱部顧問にしたのだろうか。にしても、最初は固辞していたと聞く。教員免許を持ちながら、用務員として就任するなど、不思議な人である。
「ボクの知り合いに、札幌の新栄中学の合唱部顧問がいるんだよ。見学させてもらうくらいはできると思う」
「新栄中って、あの……?」
 新栄中は北海道地区優勝の常連校である。合唱部は全国制覇も何度もしている全国トップレベルの実力をもっている。
「いきなり、新栄中ですか。それは確かに高い目標ですね」
 全道大会にさえ出たことのない現は、新栄中の合唱を見たことがない。何度かテレビ越しでNコンの発表を見たことがある程度。直接見られるなら自分も見てみたいと思った。
「全国目指すなら、全国レベル見ないと。札幌はここからも近いし。どうだろうか」
「でも、札幌までとなると、保護者が必要ですね」
「もちろんボクが引率するよ。明後日の日曜日とかどうだい? 部長と副部長も一緒に行けるなら」
「また、急ぎですね。わたしは大丈夫ですけど。ひろ……副部長も大丈夫だと思います」
「善は急げっていうじゃないか。煌輝さんには部長から聞いてもらえないかな」
「分かりました」


「じゃあ、今日は解散。お疲れ様でした。
 あ、煌輝さんは残って」
 廊下から戻って現はすぐに皆に声を掛けた。
「え? あたしですか?」
「ちょっと話があるの」
「はーい」
 女子はそのまま準備室で着替えを始める。男子はジャージのまま帰る者もいれば、その場でいきなり着替え始める者もいて、主に如月がきゃーきゃー騒いでいた。
「じゃあ、わたし、先に行ってるね」
 乃愛琉が真湖に声を掛ける。翔と一緒にいつもの辻で待ち合わせすることになっている。日曜日のダブルデートの計画を立てなければならない。
「うん、わかったー。追っかけ行くから」
 音楽室から部員がいなくなると、現の方から話を始めた。
「煌輝さんって、日曜日何か予定入ってる?」
「日曜日ですか? えっと……午前中にちょっと……」
 ダブルデートは昼に終わらせるつもりでいたので、そう答える。あの件については、現は反対だったようなので、詳しく説明することは避けた。
「あ、そうなの。それじゃ仕方ないわね。次の週にでも替えてもらうように言おうかしら……」
「何かあったんですか?」
 合唱部の話であればみんなの前で話しするだろうし、自分だけ残された事情だけは聞いてみたかった。
「うん、実はね……」
 現は先ほど雅に言われた内容をそのまま伝えた。
「え! 全国レベルの合唱部ですか! 行きたいです、絶対行きたいです!」
「じゃあ、翌週にでも替えてもらう?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 真湖は考え込んだ。これはもしかして、チャンスかも知れない。神宮とのデートをそっちに切り替えてしまえば、一石二鳥ではないか。しかも、同伴者付きとなれば、神宮も滅多なことはできないだろうし。
 ただ、問題は現が同行することである。神宮との約束を果たすことがバレてしまう。
「ああん。どうしようかな……」
「もしかして、神宮くんの件?」
 現はすぐに察した。さっき神宮と乃愛琉が話をしているのを見て、そんな気はしていたから。
「あ、バレてました?」
「って言うか、合歓さんにも忠告しておこうと思ってたのよね。ちょうど良かったわ。
 あの神宮って人ね、ああ見えても3年の中では結構人気あってさ。街中でデートなんてしようものなら、翌日絶対に虐めにあうから、やめときなって言ってあげようと思ってたとこなの」
 真湖はさっと血の気が引いた。そんなこととは露知らず、お茶を濁すどころか、やぶ蛇になるところだったのだ。
「本人に直接言うのもなんだから、煌輝さんに伝えるつもりでいたのよ」
「あ、ありがとうございます。すみません」
 これを不幸中の幸いという。
「そしたら、神宮くんと日曜日約束したの?」
「はい、そうなんです」
「あなたが言ってた、ダブルデートってことで?」
「はい、そうです」
 真湖はすっかり小さくなった。
「もう行き先決めたの? デートの」
「いえ。まだ決めてなくって、神宮先輩にはこちらにお任せしてもらうって」
「あら、そうなの」
 現は少し間を空けて、
「じゃあ、札幌に連れて行っちゃう?」
 悪戯っ子の顔をした。どうやら、真湖と同じことを考えたようだ。
「い、いいんですか?」
「元々神宮くん連れてきたのわたしだから、責任の一端はわたしにあるわけだし。騙し討ちになっちゃうけど、嘘ではないし、いいんじゃない?」
 現の責任。阿修羅もそんなこと言ってたなと思いつつ。
「札幌に連れて行けば、石見沢で目撃されることないし、一石二鳥でしょ?」
 現はそう言って、神宮の真似してウインクした。


 というわけで、ダブルデートは札幌行きになり、トリプルデートになった。しかも、石見沢駅前でたまたま札幌に買い物に出かけようとしていた英先生に雅が捕まり、4カップルという奇妙な一団ができあがったのである。
「本当、奇遇ですねぇ」
 英(28歳独身)が嬉々として、雅に話しかけた。
 英婚活メモによると、雅は35歳独身。東京の音大を出て教員資格をとり、東京で教鞭をとっていたが、実家の事情で帰郷したばかり。校長の親戚筋ということもあってこの学校に用務員として迎えられたという情報。先日入院した音楽教師に代わって臨時教師にという話もあり、あとは市教育委員会の判断待ちという噂である。
 若干精彩に欠けるところもあるが、よく見れば整った顔立ちで、年上好みの英にとっては絶好のターゲットであった。なにせ、東京の音大出というこんな田舎町では滅多に拝めないエリートである。
「そ、そうですね」
 雅は困ったように返事した。
「結局、合唱部の顧問お受けになられたんですね。早速引率とは、大変ですねぇ。それで……」
 教室ではやる気のなさそうな雰囲気を常に醸し出している担任が、今日はまるで別人のように雅に迫っているのを横目で見ながら向かいを見る。
 すっかり騙し討ちにあった神宮は、気分を害しているかと思えば、楽しく乃愛琉と歓談中だった。話を聞いていると、なんでも札幌には親戚が多く、訪れることが多いらしい。逆に滅多に札幌に行かない乃愛琉に色々と自慢話をするのが楽しいようだ。
 かと思えば、いつも何があっても楽しげな翔が今日は大人しい。ずっと車窓の外を見て、真湖と話をしようともしない。
 金曜日の夜、現と札幌行きを決めたことを翔に伝えた後くらいから、彼の表情は暗いままだった。
 もしかすると、札幌にはあまりいい思い出がないのかも知れない。翔には悪いことしてしまったのだろうかと真湖は少し後悔した。
 また隣のボックスを眺めると、英アタックにすっかりげんなりしている現と栗花落がいた。二人は参考書片手に勉強している振りをしているが、どう見ても頭に入ってきてはなさそうである。
 真湖は心の中で両手を合わせて合掌した。


 札幌に到着すると、ようやく雅は英に解放され、英はそのままショッピングへと旅立っていった。足下が浮ついていたのは気のせいではないはず。逆に雅はすっかり魂を抜かれたようになっていた。
「新栄中だと、地下鉄に乗っていった方が早いですよね?」
「そうだね、ボクが案内するよ。こっちだよ」
 さすがに自慢するだけあって、神宮はさっさと改札から出てみんなを誘導した。もちろん乃愛琉のエスコートも忘れない。
 札幌の地下鉄は全部で3本あり、南北線、東西線、東豊線がさっぽろ駅と大通りを中心に放射線状に延びており、JRさっぽろ駅と地下鉄札幌駅は直結で繋がっているため、構外に出なくても乗り換えができるようになっている。
「新栄ってことは、東西線で福済駅からバスか」
 神宮は人数分の切符を買い、全員に渡す。大変手際が良く、引率の雅の上をいっている。
「あ、いいよ、神宮くん、ボクが出すから」
「じゃあ、あとで精算しましょう。ほら、乃愛琉くん、これ、ここに入れるんだよ」
 切符を改札に通すところまでケアする。とにかく気が回る。3年女子から人気があるというのも頷けないわけでもない。乃愛琉は少し神宮を見直していた。
「さすがに石見沢とは全然違うなぁ」
 すっかりお上りさん状態の真湖は改札におどおどしながら周りをキョロキョロする。
「真湖ちゃん、危ないよ、ちゃんと前見てないと」
 エスカレーターで突っ転びそうになった真湖を翔が支えた。
「あ、ごめん、ありがと」
「ううん」
 ここでいつもなら、軽口が飛び出すのだが、やはり今日の翔は何かが違った。
「ごめんね。あんま楽しくないでしょ?」
 真湖はやっぱり気になってそう言ってしまった。
「そんなことないよ。大丈夫」
「でも、なんか元気ないし」
「久しぶりの札幌だからね。って言っても、半年も経ってないか……。
 札幌に来るとどうしても、パパのこととか思い出しちゃうしさ。あ、ごめん。でも、別に悲しいとかってそういうことじゃなくって」
 やはり札幌への思いは色々あるのだろう。真湖は何と言うべきか迷った。
「ありがと、気にしてくれて、真湖ちゃん」
 翔は努めていつもの笑顔を取り戻した。
 両親が離婚したと言っていたはず。やはりそれは翔の心の中の傷になっているのかも知れない。ただ、その気持ちは真湖には計り知れないものがあった。

 大通りで、地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗り換えてからしばらく歩く。雅がスマホで地図検索してたどり着いた頃にはすでに正午を迎えようとしていた。
 そして、ようやく、一行は新栄中学の校門に到着した。

2014年10月19日日曜日

「Nコン!」第16コーラス目「顧問!」

「そっかー、よかったな」
 垣根の隣で阿修羅(あしゅら)がそう呟いた。
「まずはおめでと」
「ありがと」
 夕飯を終えた後、真湖と阿修羅はお互いの家の垣根を間におしゃべりをしていた。真湖と阿修羅の家は隣同士。ちょうど同じく南側に庭をもっている。
 雪の多い北海道では、縁側というのはない。その代わりに洗濯物を干したりできるように庭に向かってベランダがある家が多少ある程度。ベランダさえない場合も多いのだが、あっても、たいていはコンクリート打ちっ放しの庭に出るためのたたきの程度の物だった。
 庭にはそれぞれ1個づつ木製の椅子が置いてあり、それが真湖と阿修羅の指定席だった。昔から何かあるとここで夕涼みしながらお喋りしていた。最近は阿修羅も真湖も部活のせいで機会は減っていたが。
 まだ春先で寒い時期なので、二人ともにもっこりとヤッケ(※)を着込んでいた。
「それにしても、灯のやつ、ぜってー入んねーって言ってたくせに、それかよ」
「まー、助かったと言えば助かったし。灯ちゃんは灯ちゃんで事情あるんだろうから、あんまそういう言い方しないで」
 今日も部活が終わると、灯は仲良く如月と一緒に塾に向かった。
「やけに灯の肩持つな」
「べつに」
 真湖に対して灯はいつも厳しいが、大体は筋が通っていることが多く、真湖は灯のことは好きだった。この前の翔とのことだって、ああいってはっきり言ってもらえなければ、いつまでも断り切れなかったかも知れない。今日の小林のことだって、灯がいたら何と言っていたか。
「それよりさ……」
 真湖は思い切って、今日の乃愛琉と神宮先輩の話をした。下校時の小林と翔の話は少しオブラートに包んではみたが。
「はぁ? なにそれ。それ、ぜってー、乃愛琉おかしいだろ。それ以上にその神宮って先輩? 冗談にしても度が過ぎるぜ」
「そうよね、あっしゅもそう思うよね!?」
「あったりめーだろ、それ、現先輩の言うとおりだろ。そんな奴入れない方が今後もためだと思うけどなー。合唱部だって、チームワークだべ? それ乱す奴いたら、うまくいくものもうまくいかねぇよ」
 阿修羅の同意を得て、真湖は安心した。やっぱり、あれは断った方がいいんだと。
「で、灯は何か言ってたか?」
「灯ちゃん? その件では何も」
「へぇ、珍しいな。真っ先に言いそうだけどな」
 阿修羅は頭の上に手を回して手を組んだ。随分と日は長くなったがもう空は真っ暗だ。
「ところで、その、神宮って……先輩、そんなに上手なのか?」
「うん、すっごい上手。多分、うちの部の中では飛び抜けてる」
「そっかー。そうなると、なんとしてでもほしいって気持ちも分からなくもないなー」
「えー、だって、チームワークって言ってたじゃない」
「そもそも、目標高過ぎんじゃんよ。全国大会出場とか。おままごと程度でいいなら、要らんけど。全国ってなると……乃愛琉もマジなのかもな」
「あっしゅ、さっき言ったこととまるっきり逆」
「だからさー、俺個人としては反対だけど、乃愛琉の気持ちも分からんでもないってことさ」
「乃愛琉の?」
「あー、でも、その、ダブルデートとかってのはいいアイディアじゃないか。ふたりっきりにさえさせなきゃ、ただ一緒に外出してるってだけだしな」
「ま、まあね」
「その程度で入部してくれるってのなら、それもアリなのかなー?」
「あたしはヤだなー」
「おいおい、それこそ、お前だって、言ってること違うじゃねーかよ」
「んでも……」
「その、ダブルデート、現先輩に行ってもらえばいいんじゃね? 現先輩って、栗花落先輩とつきあってんだろ? だったら、二人に行ってもらえよ。しかも最初は現先輩指名だったんだろ? なら、いいじゃん」
「現先輩はダメよ。これ以上迷惑かけらないし」
「そもそも、神宮先輩連れてきたのも現先輩じゃないか。大体、お前、一緒に行くとしたら誰と行くんだよ?」
 阿修羅が少し前のめりになって、乃愛琉と同じことを聞いた。
「あ、あたしは……その……」
 真湖が躊躇していると、
「エンリコ翔か」
 と、阿修羅が直球を投げてきた。
「え、あ……」
 真湖の狼狽えぶりを見るに、図星だったようだ。
「ま、同じ合唱部だし、どうせお出かけ程度の話だろ。いいんじゃね。」
「あっしゅは、いいの?」
「いいもなにも、俺の口出しすることじゃねーし。どうせ土日だろ? 俺、練習で行けないし」
 阿修羅にしてみれば、何故自分に許可を求めるのか。真湖にしてみれば、何故自分に関係ないような言い方をするのか。まだ幼なじみという名前の二人の関係は徐々に変化してきているのか、思った以上に複雑で、双方にとって納得のいく回答を導き出してくれることはなかった。
 しかし、裏を返せば、阿修羅は自分が候補なのをつい口を滑らした結果になったわけで。真湖にしてみれば、それなら、時間さえ合えば行くの?と聞きたいところではあったが、それを聞く勇気はまだなかった。
「じゃあ、あっしゅは乃愛琉の意見に賛成ってことで、乃愛琉に言っておくわ」
「なして、そういうことになんの? だから、俺は個人的には反対って」
「もう、わかったもん」
「なにがわかったんだよ。よくわかんねー」
「おやすみ」
「はいよ、おやすみ。あー、さむ」
 阿修羅も呆れるような話の締め方をする真湖だったが、家に入る直前に振り向き、
「あっしゅ」
 と、阿修羅を呼んだ。
「んん?」
「ありがとね、話聞いてくれて」
 そう言って、手を振った。
「ん、ああ、したっけ」
 阿修羅もそれに応えて家に入っていった。


 翌日、放課後の音楽室は昨日にもましてどんよりとした空気が漂っていた。特に部長の現がなんだがげっそりしているように思う。
「先輩、どうしたんですか?」
 音楽室に入るなり、真湖が現に聞いた。
「どうもこうもないよ。今度は顧問だってさ。誰も受けてくれないっていうんだよ、校長」
 落ち込んだ現の代わりに栗花落が答えた。
「え? しばらくは音楽の先生がやってくれるって言ってませんでしたっけ?」
「それが昨日から入院したんだって。他の音楽の先生は全然無理って、とりつく島もないらしい」
「で、校長先生は何って言ってるんですか?」
「顧問いないと、創部はできないって」
「それじゃ、約束違うじゃないですか!?」
「いや、そうなんだけど、顧問いないと、どうしてもダメだっていうんだ」
「だって、校長先生、あの時、考えがあるって言ってましたよね?」
「あー、そんなこと言ってたかなぁ?」
「何か心当たりあるってことじゃないんですか?」
「そのことは言ってなかったな」
「あたし、一言、言ってきます!」
「おい、煌輝! 待て!」
 栗花落の制止も聞かず、真湖は音楽室を飛び出して、向かいの校長室に飛び込んだ。
「失礼します!」
 校長室の扉を勢いよく開くと、席には校長が、ソファにはどこかで見たことのある、うだつのあがらない風体の男性がいた。作業着を着ている。
「あれ? 用務員さん?」
「ああ、ちょうどいいとこに。君たちもそこ、座んなさいな」
 真湖の無礼にも気にせず、校長は真湖と追ってきた栗花落に席を勧めた。予想外の対応に毒気を抜かれた真湖は言われるがままにソファに座った。栗花落も扉を閉めて、真湖の隣に座った。
「こちらね、雅洋平(みやび ようへい)さん。うちの用務員やってくれてるのネ」
「あ、どうも、先日は……」
 真湖は、校長に紹介されてつい口からそう出てしまった。
「あ、いえ。ども」
「あれ? 二人、知ってるの?」
「あ、いえ、あの……この前、ちょっと道を尋ねて、教えてもらったんです」
 と、真湖は明らかに嘘と分かる嘘をついた。どう、対応してくるか、真湖は雅の様子を伺った。
「あ……、そ、そうだったね」
 雅は真湖の嘘に合わせた。校長の前で、学生同士のいざこざを報告すると、面倒なことになりかねないとでも思ったのだろうか。
「あの、それで、何故用務員さんとのお話で、ボクたちが……?」
「雅くんに、合唱部の指導をネ、つまり顧問になってもらおうと……」
「あの、校長、それはですから、何度もお断りしましたよね?」
 雅は慌てて訂正した。
「どうしてもダメなのかネ?」
「ボクでは、とうてい……」
 雅は頭を垂れた。
「あ、あの!」
 真湖が大声を上げた。
「合唱好きなんですよね? だから、この前も玄関先で声かけてきて! 新歓見てくれたですよね! そうですよね!?」
 真湖は直感でそう言ってみた。新歓の日に玄関先で声を掛けてきた時、『合唱部頑張って』と彼は言った。自分たちが合唱部であることを知っていた。多分新歓の舞台を見ていたのだろう。きっとこの人は合唱が好きなんだ。だから、隠れてあの舞台を見ていたに違いない。
「いや。ボクは、その……素人だから」
 合唱が好きということは否定しなかった。やっぱり、あの舞台を見てくれていたんだ。この人は合唱が好きなんだ。そう真湖は確信した。
「お願いします! 顧問になってください!」
 真湖はソファから降りて、土下座した。栗花落もそれを見て、慌てて隣で土下座した。
「お願いします」
 二人が土下座を始めると、雅はおどおどし始めた。
「いや、ふたりとも、そんな、こと、やめてください。起きてください」
「嫌です! 用務員さんが顧問になってくれるまで、やめません!」
 真湖は強情にそう言った。雅は立ち上がって、真湖の腕を掴んで、立ち上げさせようとした。
「起きてください。そうじゃなと、ボクは……」
 その瞬間、雅のイメージが真湖に流れ込んだ。


 大ホール。
 石見沢では見たことないくらいの大ホールだ。
 そこには数え切れないほどの大勢の生徒たち。その中に彼はいた。まちまちの制服の生徒達は一斉に同じ曲を奏でていた。何千人という生徒たちが同じ歌を歌っているのだ。何千という声が渾然一体となって大ホールに渦巻く。
 それは以前、従兄弟の翔平から受けたイメージにそっくりだった。
 そして、その曲は……。


 腕を掴まれたまま、真湖はされるがままに立ち上がった。
「あそこに連れて行ってください!」
 立ち上がったと思うと、雅にそう行った。
「え?」
 雅は呆気にとられた。
「あの場所に行きたいんです。お兄ちゃんが教えてくれたんです。全国に行ったら、すごい体験ができるって。用務員さんも、行ったんですよね? あそこに?」
「え、全国って、Nコンってことかい?」
「そうです。Nコンです! あそこに行って、みんなで『大地讃頌』を歌うのが夢なんです!」
 雅は一瞬言葉を失った。
「Nコン全国ときて、大地讃頌ですか。参ったな……」
 雅は真湖の腕を掴んだ手を離した。
「君、いいとこ突くねぇ。
 あれはね……」
 雅は黒縁眼鏡をきゅっと上げてから、ふふっと笑った。自虐の笑みとでも言うのか、悲しみの含まれた笑いだった。

「……泣くよ」

 そう言って、雅は真湖に微笑んだ。


 音楽室に戻ってきた真湖と栗花落を、部員は固唾を呑んで迎えた。
「で、どうだったの?」
 現がまず口火を切った。
「それは……」
 と、栗花落が言いかけた時、真湖が如月バリに、Vサインを出した。
「おお!」
 と、音楽室がどよめいた。
「ご紹介します!あたしたちの合唱部の顧問で、雅先生です!」
 調子に乗って、そのまま真湖は自分たちに着いてきた雅を手招きして、皆に紹介した。
「あ、あれ? この前の用務員さん?」
 乃愛琉だけは知っていたが、他の人は知らなかった。
「こんな用務員さんいたっけ?」
 上級生達も知らなかった。それもそのはず、
「雅くんは、今年から用務員としてこの学校に来たばっかりだからネ。こう見えても、教員免許も持ってるから、教師もできるんだよ。まあ、いろいろ事情があって、今はこうしてるけどネ」
「ああ、それで……」
 上級生からはそんな言葉が。
「あ、あの、ご紹介にあずかりました、雅洋平です。この子たちには言いましたけど、どこまで指導できるか分かりません。でも、全国大会出場という大きな目標を立てたって聞いてます。ですから、ボクもできるだけのことはしますし、厳しいこと言うかも知れませんが、一度乗った船ですから、一緒に頑張っていきましょう。よろしくお願いします!」
 雅はそう言って、丁寧にお辞儀をした。
「よろしくお願いします!」
 部員も倣って深くお辞儀をした。

 ようやく、西光中合唱部は本当の意味での第一歩を踏み出した。


※ヤッケ……北海道では外套のことをヤッケと呼ぶ

2014年10月18日土曜日

「Nコン!」第15コーラス目「創部!」

「灯?」
 如月に連れてこられ、扉のところで小さくなっているのは、まぎれもなく灯だった。
「灯、合唱部に入ってくれるの?」
 入学以来何度も入部を断られ続けてきた真湖が大喜びで灯に近づく。
「べ、別に、あんたのために入部するわけじゃないんだからね。如月先輩に、勉強教えてもらう代わりにっていう約束しただけなんだから」
 大喜びに沸く真湖に、灯は目を逸らしながらそう言い放った。なにやら頬がうっすらと紅いのはなんだろうと乃愛琉(のえる)は思った。多分、あれだけ拒否したのに、結局入部することになった後ろめたさからなのか。相変わらず素直じゃないなとは思う。
「おー。如月先輩やるぅ」
 あれだけ頑なに拒否していた灯を懐柔するとは、と、翔が感心した。
「まぁねー」
 そんな翔にVサインを向ける如月。
「じゃ、じゃあ、10人揃ったってことか! 如月、大金星だよ」
 さっきまでの心配をよそに、栗花落(つゆり)は万歳して喜んだ。
「じゃあ、早速みんな入部届書いてちょうだい。すぐに職員室に持って行くから!」
 現(うつつ)は慌てて、所定の入部届を取り出して、みんなに渡した。櫻と愛(まな)の分は櫻の母が記入した。音楽室の大騒ぎが一段落して、皆が氏名の記入に集中していた頃、神宮がふと手を止めた。
「ってことは、合唱部の創部は決まったってことだから、ボクは用済みってことでいいんだよね?」
 そう言うかと思うと、手渡された用紙をそのまま机の上に置いて、鞄を持って立ち上がった。
「神宮先輩、入部しないんですか?」
 驚いた真湖がすぐに立ち上がって神宮の裾を掴んだ。
「だって、ボクはあくまでも助っ人だし、新歓の時だけっていう約束だからね、現くんとは」
「え、そうなんですか?」
 真湖が振り向くと。
「まあ、たしかに、そういう約束だったわね。でも、Nコンの時も手伝ってはくれるんだったわよね?」
「ボクもいろいろと忙しいんでね。約束はできないけど、検討はしてみるよ。現くんのたってのお願いということだったらね」
 と、神宮は現にウインクしたが、現は躱した。
「えー、でも、せっかく一緒に歌ったじゃないですかー。一緒にやりましょうよー」
 神宮の裾をつかんだまま真湖はイヤイヤした。
「女の子を困らせるなんて、なんて、罪な男なんだろうね、ボクは」
 しかし、神宮は動じる様子もなく、そう言い、音楽室の空気を一瞬どんよりさせた。
「神宮先輩入ってくれないと、真湖困っちゃう!」
 しかし、さらにノリを間違えた真湖のせいで、さらに音楽室の空気は淀んだ。
「神宮先輩、なにか他の部活やるんですか?」
 乃愛琉が見かねて口を挟んだ。神宮の目が一瞬瞬いた。
「いや。でも、こう見えてもね、ボクは今年受験生なんだよね。勉学は学生の本分だしね。とは言っても、前にも言ったけど、君たちが、どーーーーしてもっていうなら、入部、考えないでもないんだけどね」
 神宮は深く深く伸ばした口調で言った。どう見ても演技である。
「どうしたら、考えてもらえるんですか?」
 やっぱり苦手だこの人と思いつつ、真湖のことを思うとつい口出ししてしまう。
「そうだねー」
 と、神宮は顎に手を当てて、なにやら考え込んでから、
「現くんにデートでもしてもらおうかなー。ああ、君でもいいけど。なんてね。冗談冗談」
 と、手をひらひらした。
「現先輩はダメです、カレシいますから。わたしならいいですよ」
「へぇ、いいのかい?」
「デートしたら、入部してくれるんですか?」
「まあ、考えても……」
「考えるだけならダメです。デートしたら、入部してください」
「はい、はい、わかったよ。じゃ、そうしようか」
「ダメに決まってるでしょ、そんなこと。人の弱みにつけ込んで。そんなんで入部するってなら、わたしがお断りよ」
 さすがに現が放ってはおかなかった。
「そーよ、そーよ」
 真湖が尻馬に乗る。
「別におつきあいするてわけじゃないですし。わたしから神宮先輩をデートに誘うってことではダメですか?」
「いや、そういう問題じゃなくって」
 毅然と反論する乃愛琉に現はたじろいだ。こんな子だったっけと。
「うん、わかった。合歓くんだったっけ、気に入った。君、かわいいだけじゃないね」
 そう言うと、神宮はまたさっきの机に戻って、さらさらを自分の名前をクラスを書いて、現に渡した。
「じゃ、入部よろしく。どっちにしてもね、今日は用事があるので、先に帰らせてもらいますね、部長?」
 受け取った現は苦虫を潰したような顔をした。そのまま黙って神宮が出て行くのを見送った。
「ちょっと、乃愛琉、何考えてるの?」
 真湖が詰問する。
「別にいいじゃない? 一度デートってものしてみたかったのもあるしね」
 珍しく真湖に反抗するような言い方をした。
「いや、だって……」
「だから、神宮入れるの反対だったんだよな」
「だけど、仕方ないって言って、蒼斗(ひろと)だって最後までは反対しなかったじゃん」
「もう、この話はやめませんか?神宮先輩は入部されたんだし。わたしがそれでどうするかとかは合唱部とはもう関係ないですから」
 これ以上部屋の雰囲気が悪化するのを、乃愛琉は必死で止めようとしているのだった。
「わ、分かったわ。じゃあ、みんな、入部届けに記入終わったらわたしのとこに持って来て」
 そうした乃愛琉の気持ちを読んでか、現がそう言うと他の部員も口出しをやめた。真湖もまだ言い足りないことがあったが、今はやめておくことにした。
 順々に入部届が集まり、全部で21枚が揃った。これが復活合唱部の最初のメンバーである。
「じゃあ、早速行ってくるね」
 そう言って、現と栗花落は向かいの職員室へと出て行った。
「うちの子、本当にいいですか? よろしくお願いしますね」
 現たちが職員室に向かった後も、櫻の母は部員達にペコペコと頭を下げていた。どうやら全員に挨拶するつもりらしい。当の本人は、すっかり気に入ったと見えて、真湖にべったりくっついていた。
 櫻の前でさっきの話を蒸し返すのもなんだと思い、真湖は櫻に問いかけた
「櫻ちゃんって、どんな歌が好きなの?」
「んと……」
 櫻は少し考えてから、
「お歌なら、なんでも……好き」
「そ、そう? じゃあ、最近で一番好きな歌は?」
「さい……きん?」
「そ、今、櫻ちゃんが一番好きな歌」
「こーか」
 と言ったかと思うと、またさっきのように校歌を奏で始めた。
「あ、すみませんね、気に入ると何度でも歌い出すんです」
 櫻の母が恐縮そうに言った。
「いえ、あたし、櫻ちゃんの歌が好きですから」
「す……き?」
 ふと、櫻の歌が止まった。
「ん?」
「まこ、さくらの……うた……すき?」
「もちろんだよ、さっきも、いまのも大好きだよ。櫻ちゃん、上手だもん」
「あり、がと」
 櫻はモジモジして、ふと真湖から離れて、母の元に戻った。
「……」
 戻ると、櫻は愛とこそこそ話を始めた。
「あー、何話してんのかなー、バカじゃんあいつとか言ってんのかなー」
「そんなこと言ってるわけないじゃない」
 不安げに呟く真湖に、乃愛琉がそう諭した。真湖と櫻、お互いに遠くで見つめ合いながら友人とささやき会話を続けるという奇妙な風景がしばらく続いた。
「出してきたよー!」
 そんな時に、威勢良く現が教室に戻ってきた。
「受理されたんですか?」
 すぐに如月が食いついた。
「もっちろん」
 如月バリに現がVサイン。
「やったー!」
 音楽室中が大騒ぎになった。
「良かったね」
「やったね」
「よろしくな!」
 それぞれに感激の声を上げた。特に真湖は涙ながらに現に抱きついた。
「先輩ありがとうございます! ありがとうございます!」
「煌輝さん、よかったね。これからも頑張ろうね」
 二人は抱き合いながら、喜びを分かち合った。横で栗花落と乃愛琉が二人を温かい目で見つめた。今回の出来事で一番苦労したのは現だったはず。おかげで真湖はようやく夢の一歩を踏み出せたのだ。
 ただ、帰ってきた栗花落の表情が冴えないことに乃愛琉はなんとなく気がついていた。

「一緒に帰ろうぜー」
 真湖、乃愛琉と翔に声を掛けてきたのは同じクラスの小林だった。
「あれ、小林くんたちって、同じ方向だったっけ?」
 小林は美馬と一緒に玄関を出たところだった。
「方向は違うけどさ、すぐそこまで一緒じゃん。同じクラスなんだし、部活も一緒になったんだから、いいじゃん、一緒に出ても」
 確かに、小林の言うとおり、どの方向に家があったとしても、校門から大通りに出るまでは一本道で皆同じ道を辿ることになるのだ。
「小林くんたちって、西小? 北小?」
「残念、陽光小でした」
 陽光小は西北よりもっと遠い地域にあり、田園風景の広がるところだった。両方向を丘に囲まれているので、中学は西光中なのだが、直線距離としては、どの小学校より遠い。
「帰り時間かかりそう…」
 乃愛琉が言いかけたところに、小林が被せてきた。
「それよりさ、さっきの話さ、やっぱ、やめた方がいいんじゃね?」
 小林は、さきほどの乃愛琉と神宮のデートの件を言っているらしい。乃愛琉と二人きりになったら言い出そうと思っていた真湖は出し抜かれたかたちになった。
「もう、やめよう、その話」
「やめねぇよ。だって、合唱部のみんなのために、なんで合歓だけ一人犠牲になんなきゃなんねぇの?」
「犠牲とか、そんなことないし。だから、これ、わたしの話だから。いいでしょ」
「よくないって」
 小林が乃愛琉の手首に手を掛けた時、真湖が口を挟んだ。
「乃愛琉……。そ、そうだ、じゃあ、あたしも行くよ!」
「え?」
「だって、なんだっけ、ダブルデートとかってあるじゃん。あれなら、二人きりじゃなくても、デートはデートでしょ? なら、いいんじゃない?」
「な、何言ってんの。だとしても、真湖ちゃんは誰と行くのよ?」
 乃愛琉の脳裏には一瞬阿修羅の顔が浮かんだのだが。
「あ、それは……」
 しかし、真湖は即答できずに狼狽えた。
「ボクが一緒に行くよ?」
 早速翔が立候補。
「ちょ、待てよ、エンリコ、そこで出るか?」
 何かもの言いたげに小林が文句を言った。
 そこに、
「ダメだよ! そんなの、ダメだよ!」
 今まで黙って着いてきた、美馬が大声を出した。
「好きでもない人とデートとか、おかしいよ。ダメだよ!」
 普段大人しい美馬が叫んだことで、皆一瞬止まった。けれど、美馬から次の台詞が出ることはなく。
「で、でも、好きかどうか分からないし。べ、べつに嫌いってわけでもないし……」
 乃愛琉が言い訳じみた口調で言った。むしろ、乃愛琉にとっては神宮は苦手なタイプで、好きな方でなないことは確かなのである。
「じゃあ、好きなの? あの神宮って先輩が好きなの?」
 美馬は乃愛琉に迫った。乃愛琉もその勢いにタジタジになる。
「あ……ごめん」
 急に我を思い出したかのように、美馬はいつもの表情に戻った。
「ごめん、帰る……」
 それだけ言って、美馬は校門から出て、表通りに駆けて行った。
「おい、待てよ!」
 小林は追いかけようとして、思いとどまった。それから、また振り返って、美馬に聞こえないように気遣ったのか、小さい声で、
「ごめん、美馬さ、合歓のこと、好きらしいんだ。それで、あんな……」
 謝るようにして、小林がそう言った。
「え……?」
 乃愛琉は一瞬硬直した。そんなこととは露知らずあんな言い方を。
「あ、今の、俺が言わなかったことにしてくれないか? 美馬も、俺には何も言ってないし。ただ、俺が気がついたっていうか。悪い」
「うん。分かった」
 乃愛琉もかなり動揺していた。そう言うのが関の山で。
「それに、俺も……さ」
 急に小林の滑舌が悪くなった。
「俺、も。なにさ?」
 翔がツッこんだ。
「いや、なに……その、エンリコも、人が悪いやつだな……あのな……」
 それに、小林が紅くなって、翔の耳元に内緒話をした。
「そっかー! 小林くんも真湖ちゃんが好きなんだね!」
「こらー!エンリコ、それじゃあ、内緒話の意味ねーじゃねぇか!」
 小林は、翔の首根っこを腕でがっしりと捕まえて、ネックホールドの体勢。
「ちょ……」
 今度は真湖が紅くなった。
「そ、そっかー、じゃあ、またライバル増えたね!」
 翔は小林にがっしりと掴まれたまま、そう言った。
「また?」
 小林の力が少し抜けた。
「あれ? 知らないの? 真湖ちゃん人気あるんだよ」
「誰よ?」
「剣藤阿修羅」
「ちょ、エンリコくん! あっしゅは違うって!」
 慌てて真湖は否定した。
「え、剣藤って、野球部の? あれが、煌輝の? うわー。マジー? 強敵ー!」
 小林は冗談とも本気ともつかない言い方をした。
「違うって、違うって。あっしゅはただのお隣さんだし!」
 真湖は両手をブンブン振って、全力で否定しようとする。その反応で小林も悟ったらしい。
「そっかー」
「でも、いいんじゃなーい。みんな真湖ちゃん好きなんだし。オープンでいこうよ? 人を好きになるって素晴らしいことじゃないか。何故隠すことがあるんだい?」
 翔は軽くそう言った。
「もう、なに言っての、本当にもう! オープンとか、もうやめてよね。告白って、そんな簡単にするもんじゃないでしょ?」
 美馬の乃愛琉への想いが小林からバラされたかと思うのと、今度は真湖へ、小林からの激白だったり。乃愛琉も真湖も心の中で右往左往していた。
「まあ、とにかくさ、そんなことだから、今の美馬のことは多目にみてやってくれないか?」
「で、でもさ! それって……」
 真湖がいきなり冷静になった。
「つまり、乃愛琉に気があったから、合唱部に入ろうとしたってこと? 下心あったってこと? それじゃあ、神宮先輩のこと言えないじゃない?」
「そんなんじゃねーよ。俺たち確かに歌は好きだし。ただ、そこにおまえ達がタマタマいただけって話だよ。バカにすんなよな。じゃ、俺、美馬追っかけるから。したっけ、明日」
 そう言って、小林は美馬の後を追いかけた。
「なんなの一体?」
「小林も素直じゃないなー。じゃ、ボクも空気読んで先に帰るね」
 そう言って、翔も小林を追いかけるようにして大通りを先に曲がって行った。
 すっかり、ドタバタの中に取り残された真湖と乃愛琉だった。

 そんな風に真湖たちが甘い春の入り口を経験している時、石見沢西光中学校の職員室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 黒板に書かれた議題は「合唱部の創部について」だった。